
かつて東京が“TOKIO”(トキオ)って呼ばれていた80年代。
オヤジは当時、世界で一番エキサイティングな街と言われたTOKIOでアルバイトをしながら大学に通っていた。
音楽はもちろん、ファッションやカルチャーにもディープインパクトだったYMO(イエローマジックオーケストラ)が文字通り“逆輸入“された最中。
『テクノポリス』で坂本龍一のエフェクトの効いた“TOKIO”という英語訛り?の響きを聞くたびに、あの頃のバブル経済に向かう正気の沙汰ではない東京の異常なテンションとエネルギーか想起される、さらにジュリー(沢田研二)のトーキーオッ!(糸井重里:作詞)も同時期に重なり完全に東京が“TOKIO“になっていった時代だった。
ちなみにオヤジは、柄にもなく高橋幸宏に憧れて似合わないテクノカットに口髭を蓄え 渋谷パルコにあった高橋幸宏デザインのファッション・ブランド『ブリックス』で買った黒のジョッパーズパンツが大のお気に入りで毎日履いていた記憶がある。
後に建設現場のアルバイトで本物のニッカポッカに足を通すたびに微妙な気分になったものだが・・・笑
確か同じ頃、コムデギャルソンやワイズがパリコレで“黒の衝撃“と呼ばれる大旋風を引き起こしたというファッション雑誌の記事に釘付けになり、強烈な洗礼を受けた。
俗にカラス族と言われ上から下まで黒の洋服で身を包むファッションにアルバイト代のほとんどを費やす生活を送るが、そんなヤングカルチャーを皮肉ってスマッシュヒットした『夜霧のハウスマヌカン』という曲も当時のムーブメントの大きさを証明する一つかもしれない。
大学よりもアルバイトが優先、特に時間無制限の建設現場などで月に30万円以上を稼ぎ、新宿のマルイメンズ館や渋谷パルコなどで洋服を買っては週3日はディスコで朝まで遊んで始発で帰って、ほとんど不眠でバイトへ直行なんてことも日常茶番劇だった。
今では信じられないかもしれないが本当に始発電車の時間までディスコは営業していたのである。
しかもドリンクはもちろん食事やスイーツも食べ放題だったのだからディスコに10時間滞在なんてことも当たり前のことだった。
会社帰りのOLや大学生たちがロッカーで華やかなファッションに着替えてフロアーで乱れ咲く。
壁一面のミラーに向かって全員が同じステップで踊り狂うという今思えば未開の国の新興宗教にも似た非日常的で正気のサタデーナイトが日常だった時代である。
オヤジが最初に通った新宿のディスコ『ニューヨークニューユーク』は音楽とファッションのジャンルによってフロアが分かれており『テクノ』フロアと『サーファー』フロアがあった。
もみあげを三角にして刈り上げ、DCブランドに身を包みテクノポップにユーロビートのテクノフロア。
レイヤードのロン毛をなびかせ真っ黒に日焼けした胸元をはだけたアロハにフレアパンツで、ファンキーやR&Bやソウルミュージックのサーファーフロア。
確かそんな感じに分類されていた。
同じ新宿の『ツバキハウス』はパンクスやニューウェイヴのイメージが強く当時から業界人やファッション関係者、今やレジェンドと言われるような面々が多く、若干敷居が高かったと記憶している。
原宿のホコ天に“竹の子族“や“ロックンローラー“と呼ばれるダンスパフォーマンス集団が屯しごった返していたのも同じ80年代。
こうしてファッションと音楽(ダンス)がリンクし主張しあいながらTOKIO独自のヤングカルチャーが同時多発する実に刺激的で面白い時代がオヤジの青春期だった。
話は尽きないが、1985年新風営法の施行により“眠らない街 新宿”の明かりが途絶え、ディスコも12時で閉店となった時の祭りの後の少し寂しいような感覚は、今でも鮮明に覚えている。
しかし日本のバブル景気は1986年から1991年。
むしろここからがお祭りの本番だったのである。バブル期ど真ん中のファッションやカルチャーについてはまた別の機会に触れてみたい。